森博嗣『少し変わった子あります』(2)

nksn2006-09-13

「それは、たしかに難しい問題だね」私は余裕を見せるためにそこで微笑んだ。私がこの数十年間で身につけたことといえば、冷静さを装う技術だけである。「時と場合による。そもそも、君が何故、その問題を相手に伝えたいのか、伝えることによって何を得ようと求めているのか、を示す必要があるだろう。その期待の度合いによって、要求される抽象性が異なったものになるからだ」
「いえ、私はなにも得たいとは考えていません。ただ、多くの場合、人はコミュニケーションを求めます。そうすることで一時の安心が得られるからでしょう。コミュニケーションの目的の大半は、その行為が成立する場にあると思います。そんな中で、相手がいろいろと私に尋ねてくるのです。それで、なんとなく、自分の内側を少しは公開しなければならないのか、という気持ちになる。不安はあります。でも、なにも打ち明けないで話をすることのほうが罪悪感を覚えるのです。そんなことはありませんか?」
「いや、わかるよ。よくあることだ。一般的な心理といって良いだろう。自分だけが知っていることを相手に伝えることで、親しみを持ちえたと感じることができる。相手も、秘密を打ち明けてくれた、その行為に関して親しみを抱くだろう。秘密を共有するという連帯感から発しているものだ」
「そうなると、より具体的に話さなければ、秘密の秘密たる価値は薄れてしまいますよね?」
「そのとおりだ」
「すると、結局、抽象的にものごとを表現することは、情報をベールに包むことですから、相手から距離を置こうとする、よそよそしさを感じさせてしまうんじゃありませんか? 抽象性は相手に対する優しさだ、と先生はおっしゃいましたが、どちらが本当でしょうか」
「どちらも、本当だ。それは、会話だけでなく、人間関係の極めて本質的な問題といえる。ここだ、というところに答はない。常にそのバランスを取らなくてはならない。そういうものではないかな。どちらかが真というものではないと思うね」
「今の先生の発言は、とても抽象的でした。私に対する優しさを表現されたのですか?」
「そんなに、具体的な意志を持って話したのではないよ」私は微笑んだ。これは誤魔化すために笑った、といった方が近いだろう。「いや、しかし、そうかもしれない。うん、たしかに君のいうとおりだ」
「ありがとうございます」彼女は頭を下げた。

連作短編集、なのかな。不思議な料理屋で見知らぬ女性とともに食し、いろいろ考えるおはなし。静かで非常に落ち着いた森節。仕掛けも見事で、読み終わって一息入れたら今一度ページをめくりたくなる。切り離し難さから長くなる引用。